温泉寺家紋
温泉寺茶話

謹賀新年

皆様、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。昨年より、私的な問題に直面し、なかなかこのHPも更新することができないでいました。ただ、相変わらずボチボチとした日暮しの中、スローペースにやりたいと思っております。

平成19年は、とても個人的にたいへんな年でした。お寺のこともままならず、地元の方にはたいへんなご迷惑をおかけしてしまいました。まるで暗闇の中に自分がいたような気がしますが、そんな中、明るい兆しを与えてくれたのが、秋の紅葉ライトアップでした。

住職の私が非常に不安定でいる中、実行委員会と称する地元のボランティアのメンバーも増え、更に市役所観光課の職員の皆様まで交通整理に加わって下さり、心から感謝しています。そのおかげで、10日間の期間中、4000人の方々に温泉寺の紅葉を楽しんでもらえることができました。事故もありませんでしたし、スタッフの情熱により、イベントも充実しました。5回目のライトアップでしたが、初めて念願の「足湯」も境内に設置でき、紅葉ライトアップと足湯の共演が実現しました。たくさんの方々に活け花や押し花絵の披露をしていただき、立派な展示ギャラリーもできました。3日間限定でしたが、お茶席も賑わいました。また、地元青年団「若宮会」の皆様には、「もみじ横丁」と銘打ち、中央駐車場にて炊き出しをして、このライトアップを盛り上げて下さいました。3夜連続のコンサートも、おかげさまで大盛況でした。それぞれのアーティストの皆様には、遠い所から足を運んでいただき、ライトアップに更なる花を添えていただきました。萩原町の尺八の今井さん、古川町の雅楽団・風雅さん、埼玉県のギターリスト・榎本さん、本当に有難うございました。また、ライトアップ終了後には、たくさんの御礼のお手紙やメールをいただきましたし、その上立派なお写真を下さった方がおられます。厚く御礼申し上げます。そして、来場者の皆様、この行事を支えて下さった多くのスタッフの皆様、寒い時期なのに本当に感謝しています。この行事に触れて下さった誰よりも、当時不安定だった私が恐らく一番勇気づけられたのではないかと思います。何しろ全てにおいて一人ひとりのボランティア精神の賜物だからです。入場無料の中にもかかわらず来場者の皆様には浄財をいただいたり、スタッフの方には貴重な時間と労力をいただいたり・・・。私は何にもせずにいて、このイベントは大盛況を極めました。しっかりしなければならないなと、つくづく感じました。

紅葉の色は、昼は昼の色があり、夜は夜の色があり、そのままの姿を私たちに披露してくれます。勿論どちらも綺麗です。それぞれの姿を素直に見せてくれるもみじの木。もみじは自分でどちらの色を見てほしいと思っているのでしょうか?またはどちらが真実の自分だと思っているのでしょうか?そんなことを思っているうちに、私は自分の色を主張しすぎたために、自分で自分を苦しめていることを感じます。不安定になった原因はそこにあります。

「こころの色」  谷川俊太郎

私が何を思ってきたか
それが今の私をつくっている。
あなたが何を考えてきたか
それが今のあなたそのもの。
世界はみんなの心で決まる。
世界はみんなの心で変わる。
赤ん坊の心は白紙。
大きくなると色にそまる。
私の心はどんな色?
きれいな色に心をそめたい。
きれいな色ならきっと幸せ。
すきとおっていればもっと幸せ。

もみじの木は、すきとおっているから昼も夜もきれいなんだなと、思ってしまいます。今は勿論葉っぱも落ちて、真っ裸です。殺風景だなと思う今の季節でも、何だか真っ裸のもみじはきれいです。素直にありのままを見せてくれていますから。格好悪くても、苦しい時は苦しいなりに、悲しい時は悲しいなりに、おかげさまで体は丈夫!今年も1年頑張ります。

2008.01.19


お詫びのご挨拶

こんにちは。たいへん久しぶりの更新です。実は去る5月にパソコンの調子が悪くなり、初期化したところ、更新画面のパスワードが消えてしまい、以来当HPをかまえずにおりました。全くドンくさい話です。

毎月楽しみにして下さっていた大阪の方、お元気ですか?奇しくも更新できるようになった今日が、確か貴方の誕生日です。おめでとうございます。我が禅寺においては初祖とされる達磨さんの命日ということで、10月5日の誕生日をよく覚えています。
という訳で、本日は簡単に達磨さんを紹介します。よく願掛けやお祝いの場に登場するダルマさんですが、この方は実在の方で、お釈迦様から数えて28代目、インドから中国に禅を伝えられた方です。少林寺拳法でお馴染みの、中国は嵩山・少林寺で9年間、ひたすら坐禅に没頭された方です。

この達磨さん。インドから艱難辛苦の船旅で、ようやく中国(広州)へ上陸なさった時に、面白いエピソードがございます。
当時、中国には梁という国があり、そこにたいへんな仏教信者の武帝という王様がいました。とにかく仏の教えを守り、また勉強して、僧侶を厚く敬い、お寺も数多く建立しました。国民にも非常な慈悲心で接し、信頼も厚く、皆からは仏心天子と呼ばれておりました。
中国に上陸した達磨さんは、早速この武帝に招かれました。武帝はインドの高僧達磨さんに尋ねます。

「私は、こんなに仏の教えを守り、この国をついに仏教国にしたが、果たしてどれぐらいの功徳があるでしょうか?」
達磨さん。「無功徳!」

思わず耳を疑った武帝は続けて尋ねます。

「でも、僧侶を大切にして、施しもしているし、お寺も随分建立しました。それでも功徳は無いのですか?」

達磨さん。「無功徳!」

さすがに腹を立てた武帝は更に尋ねます。

「では、仏教の根本の教えは何か!」

達磨さん。「廓然無聖!(からっと晴れた空みたいなものだ)」

すっかり訳のわからなくなった武帝は最後に尋ねます。

「私の目の前にいる貴方はいったい誰だ?」

達磨さん。「不識!(知らん)」

武帝はとうとう達磨さんとの問答を諦めてしまいます。この後、達磨さんは嵩山に向かい、少林寺で9年間、じっと坐禅三昧に入られました。

さて、私が達磨さんだったらどうしていたでしょう。素晴らしい高僧であるという前評判で、武帝に招かれていたら・・・。きっと武帝の質問に対して、武帝を持ち上げるような返答をして、(絶対に無功徳なんて言いません・・・。)武帝に気を使いながらお話して、地位と名誉を得たに違いありません。

いちいち説明しなくても、達磨さんの境涯をおわかりいただけると思います。「あーしてやった、こーしてやった。」などという恩着せがましい親切は、本当の親切ではないし、もともと達磨さんの心中は、言葉通り、からっとした秋空のようなもので、地位だの名誉だの、仏教ですらこだわらない方であったと推測します。でなければ、少林寺に9年も篭もったりしませんよね。

少林寺に篭もった達磨さんは、中国僧に変人扱いされていましたが、ひたすら壁に向かって坐禅している、その微動だにしない背中を見て、だんだん尊敬される存在となっていきました。華やかに世へ出ることはついにありませんでしたが、その法灯は現在日本にまで続いています。当時の中国では、達磨さんのように、体験で以って心を養うことより、経文や戒律の研究を重要とする教相家・律僧のほうが世の中では主流であったため、達磨さんはそれらの人達から恨みを受け、毒殺されてしまいます。

しかし、先ほどの梁の武帝は、晩年、達磨さんの本心を悟り、再度面会を望みました。残念なことに、達磨さんは既に亡くなっており、その願いは叶わなかったそうです。

何物にもとらわれず、こだわらず、というのは難しいですね。「こだわるな!」という言葉についついこだわってしまいそうです。スカッと、カラッとした秋空。どんな雲でも受け入れ、来ても良し、去っても良し。風が吹いても、雨が降っても、隠れているだけで、いつでもその正体は青空です。私達の心の中も、本来は青空であるというのが、達磨さんの禅であります。

「眼にて云う」   宮沢賢治

だめでしょう。
とまりませんな。
がぶがぶ湧いているのですからな。
ゆうべからねむらず血も
出続けるもんですから。
そこらは青く しんしんとして
どうも間もなく死にそうです。
けれどもなんと いい風でしょう。

中略

あなたの方から見たら ずいぶん 
さんたんたる景色でしょうが、
わたくしから 見えるのは
やっぱりきれいな青空と
透き通った風ばかりです。

2007.10.05


変な話

本日4月17日、予想通り温泉寺の桜が散り始めました。春の慶びを一番感じさせてくれる桜。今年から地元有志の皆さんと、温泉寺石段下の地蔵堂の桜をライトアップして、地元の皆さんをはじめ、観光客の皆さんにも愛でていただき、また自分自身もそのおかげでおいしいお酒を2回味わいました。特別何か催しをすることもありませんでしたが、ただ桜を目の前にしていただく一杯は、非常に幸せな気分にしてくれました。

その桜の花とも、来年までお別れです。何だか寂しい気持ちになります。こんな時、良寛和尚の辞世の句を思い出します。

形見とて  何を残さん  春は花
夏ほととぎす  秋はもみじ葉

形見など、何を残すというのだ。例えば春に咲く花。夏のホトトギス、秋の紅葉。更にそれ以外の動植物たちの命そのものと、私の命と寸分違わない。その場その場に生きているものが、常に私自身なんだよ。

という感じでしょうか。寂しそうな句の中に、非常に大きな生命のエネルギーが隠されています。「万物と我と同根」そして「一如」「自他不二」の世界であります。私の故郷・出雲が生んだ陶芸家の一人、河井寛次郎さんは「花をみている。花もみている。」と表現されました。自分が花になり、花が自分になるという世界です。

先日、近所の小学生が私に質問しました。

「人を殺すことは悪いことだけど、アリを殺すことはどうなの?いいの?悪いの?」

と。確かに人を殺すことはたいへんな重罪です。当たり前です。しかし私達に直接危害すら与えないアリを1匹、殺すことはどうなのか?それをいきなり聞かれて、びっくりしましたが、その子は非常にいい質問をしてくれたと思います。アリを殺すことは、人間社会における勝手な法律の中では処罰されませんが、この宇宙全体の生命の営みの中ではどうなのか?という部分を充分感じてくれているのです。私はとりあえず、
「小さな体で一生懸命働いているアリを、訳もなく殺すことは良くないんじゃないかい?」
と、答えました。するとまた質問。

「じゃあ、人間を刺す蚊はどうなの?ハエは?」

こうなると、人間の身勝手さを聞かせるしかありません。私はまたもやとりあえず外村繁さん(とのむら しげる)さんの話を、うる覚えでしたが聞かせました。

外村さんは近江商人の三男として生まれました。中学時代、叔父さんの家に下宿をしていたのですが、そのかわり、毎朝カエルをたくさん捕まえてくることを命じられました。叔父さんはヘビが大好きで、飼っているヘビに外村さんが捕まえてきたカエルを毎朝食べさせるのです。外村さんは、カエルが可哀想で仕方なく、カエルをヘビに与えることをやめるよう叔父さんに懇願しました。すると叔父さんが答えます。

「お前だって動物の肉や魚を食べているではないか。ヘビだってカエルを食べなきゃ死んでしまうんだぞ。」

と。そこで外村さんは、肉や魚を食べるのをやめると誓いました。するとまた叔父さんが答えます。

「お前は肉や魚にしか命が無いと思っているだろうが、お前が食べる米や野菜にでも皆、平等に命があるんだぞ。」

と。当時外村さんは、その言葉が叔父さんの屁理屈だと、暫く反抗したそうですが、後になって考えてみると、全くその通りだと納得されたとのことです。

他の命をいたわる優しい心と、それと全く同じ命を持つものを食べなければ生きていけない現実との葛藤です。私に質問してくれた小学生も、同じ葛藤をしていると思いました。

私達は勝手に、可愛いもの・可愛くないもの。食べるもの・食べないもの。見るもの・見ないもの。好きなもの・嫌いなもの。綺麗なもの・汚いもの。などと区別して生きています。ですが、この目に見える全てのものは、皆同じ命を共有しているものであります。そしてかなりの数の命を犠牲にして、私達は生きていけるのです。数限りない命の犠牲の上に、私達の命の保証がある訳ですから、生かされているという表現の方がいいですよね。全てのものに対して、感謝せずにはいられなくなります。

そうなると、今度はいろいろな命に対して、惜しみなく自分自身を投げ出すことができます。これが愛情=慈悲であり、そのものになりきる一如の世界が広がるのではないでしょうか?良寛さんが春の花、夏のほととぎす、秋のもみじが自分自身であるとおっしゃった世界です。

今回はかなり理屈っぽくなりました。そしてクドイ文章になりました。ここだけの話ですが、このページは更新するたびに、一応家内に読んでもらって、読みやすいかどうか指摘してもらいます。私はまだまだ書き足したい気持ちもありますが、このあたりでやめておかないと、家内にこの文章を却下されますので、これで終わりにします。

あ、それでさっきの小学生の蚊やハエの場合の質問の答え。まだ言ってませんでした。
「とりあえず『ごめんなさい』と言って叩くしかないね。」

と、私は答えました。他にもっと良い答え方があれば、教えて下さい。合掌。

ハエ一つ 打っては南無阿弥陀仏かな (小林一茶)

2007.04.17


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