
令和七年春、史跡・飛騨屋久兵衛四代目・武川益郷建立地蔵堂の檜皮屋根葺替工事が、そのご子孫である十三代目、十四代目の手により完了致しました。
飛騨屋は元禄期より北海道にて松前藩のもとアイヌやロシアと交易し、北前船などで材木や魚介類を本州に輸送した江戸時代の大財閥。
この桧皮葺の地蔵堂は、飛騨屋久兵衛四代目益郷が下呂本店屋敷内に約二百年前に建立したもので、現存する唯一の遺構です。
今回の檜皮屋根葺替工事は、建立二百年目の節目に成された報恩行であり、心より感謝申し上げます。
この世を生き抜くことの難しさを知らされ、そのために自分が何をすべきかを考え、自分にできることを静かに成し遂げた先人が下呂にみえます。
それが4代目飛騨屋久兵衛益郷(下呂武川家7代目・武川久兵衛益郷~ますさと~)です。
もともと甲斐武田氏の家臣であった武川家は、下呂に移り住んで3代目の久右衛門倍良が、武田氏菩提寺の恵林寺ゆかりの剛山祖金禅師を開山に迎え、それまで湯嶋薬師堂と称したお薬師様の御堂を寛文11年(1671年)に、正式に臨済宗妙心寺派に属する温泉寺として開きました。
当時、下呂郷六ケ村の名主を務めていた武川家ですが、元禄5年(1692年)に飛騨国が幕府直轄領(天領)になると、幕府は山林保護のために木材の伐採を禁止しました。それまで林業で生計をたてていた人たちの生活は困窮し、名主であった武川家も年貢を代納したために経済的に逼迫しました。
4代目倍行は、元禄9年に江戸へ出て、新たな事業を模索しました。それが、藩に運上金を納めて山林を伐採し、製材、輸送、販売に至る伐採請負で、その事業の場として選んだのが遥か彼方の蝦夷地(北海道)でした。これは、江戸時代前期の遊行僧として知られる円空上人が元禄4年に温泉寺を訪れており、倍行は蝦夷地の情報をある程度、円空上人から得ていたのではないか・・・とする説もあります。
こうして倍行は元禄13年(1700年)に伐採請負業「飛騨屋」を創業し、自らを飛騨屋久兵衛と名乗り、南部藩(青森県)の許可を得て下北半島の大畑にて業務を開始しました。2年後の元禄15年(1702年)には北海道・松前へ進出し、ついに広大な蝦夷地での事業を始めました。しかし飛騨屋が請け負った山林は特に条件の厳しい僻地であり、それでも経営に工夫を凝らし、後には藩からの絶大な信頼を得ることとなり、飛騨屋2代目倍正・3代目倍安へと引き継がれ、いつしか松前藩から独占的に伐採請負の許可を得るほどの豪商になっていきました。更に下呂の本店を軸に、大畑や松前の他にも秋田・江戸・京都・大阪(堺)にも支店を持ち、北前船にて木材だけでなく、豊富な海産物などの流通も手掛ける大財閥へと発展しました。
しかし、3代目倍安の頃に支配人の多額の横領が発覚、更に松前藩がその元支配人と共に飛騨屋の伐採請負の乗っ取りを画策し始め、運上金の増額を迫りました。ついにその圧力に耐えかね、倍安は伐採請負から撤退し、安永2年(1773年)に松前藩に貸し付けていた8000両を放棄する代わりに、アイヌと交易できる場所請負の権利を得ました。しかし南下政策をとるロシアとの遭遇や、文化の違うアイヌとの交易に、場所請負の事業は困難なものでした。更に再び元支配人が飛騨屋に対して乗っ取りを画策し、倍安は幕府に対し、元支配人と松前藩を公訴。当然勝訴しますが、松前藩との関係は悪化し、4代目益郷に飛騨屋を譲ります。
しかしながら度重なる船の難破や、幕府のロシア政策、クナシリ・メナシの騒動などでアイヌを含む多くの犠牲者を出してしまい、寛政3年(1791年)、ついに益郷は蝦夷地を撤退、4代91年間に及ぶ豪商・飛騨屋のドラマは幕を閉じます。
その後、益郷は下呂へ帰郷し、名主を務めながら官材伐採の請願が幕府に認められ、寛政11年(1799年)には官材輸送を請け負いました。地道な事業努力により益郷は蝦夷地を撤退してから33年後、文政7年(1824年)についに飛騨屋の負債8200両とその利子など4003両の、合計12203両にものぼる負債を完済しました。
更に益郷は蝦夷地やアイヌ、ロシアに関する多くの記録を残しています。特に著書の「北信記聞」には、アイヌの生活・文化や、ロシアの使節「ラクスマン」の来航、漂流民「大黒屋光太夫」の返還などが記され、当時の北方事情を詳細に伝える貴重な文献となっています。
栄華と衰退の両方を知る益郷は、その陰に失われた多くの人命に対し、供養も怠りませんでした。父親である3代目倍安と共に、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師や、弟子の東嶺禅師に深く帰依し、松前・大畑をはじめ静岡県三島市「龍沢寺」や、京都・紫野「大徳寺」などに供養の跡が残されています。
下呂・温泉寺境内にも3代目倍安による略法華経15万部・般若心経1万部の供養塔(明和2年・1765年)や、4代目益郷建立の地蔵堂(文政4年・1821年)が残っています。
ただ、ただ、祈ること。昔も今も、人の心は変わってはいないと思います。

臨済宗妙心寺派・醫王霊山温泉寺
下呂温泉と共に歩んできたお寺の歴史について

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