
松下童子に問えば
言う 師は薬を採り去ると
只、此の山中に在って
雲深うして処(ところ)を知らず
この詩は、中国・唐の時代の賈島(かとう)という方の詩です。「隠者を尋ねて遇わず」という題名の通り、必ずこの山中のどこかにいるはずなんだけど、雲の深きによって居場所がわからないという意味の詩であります。
私は先日、岐阜・長野の県境にそびえる霊峰、御嶽山へ登る機会にめぐまれました。地元の小学校の5年生が毎年2泊3日で御嶽登山研修に出かけるのですが、その登山に同行させてもらったのです。当日は、小学生が宿泊している麓の濁河温泉を6時半に出発するということで、私は下呂を4時半に出ました。私自身初めての御嶽登山でしたから、とても胸躍らせてワクワクしながら先ずは小学生のいる濁河温泉をめざしました。ところが御嶽山麓に入れば入るほど、霧が濃くなり、濁河温泉到着の頃には本当に前が見えないほどでした。そんな中、小学生達と合流し、いよいよ御嶽山頂を目指して歩き始めました。登頂を達成したときの満足感を希望の灯としていたのですが、現実に見る濃い霧と山中の暗さに不安も覚えました。
その時、冒頭の賈島の詩が頭をよぎったのです。
「ただ此の山中にあって、雲深うして処を知らず。」
まさしくこのような状況だなと思いました。山頂へ続く道は確かにあり、山頂自体も存在するのですが、雲(霧)のあまりの深さに、一寸先も見えず、どこに向かっているのかわからないという状況です。
でもこれって、何かに似ていますね。私だけかも知れませんが、私自身の心の中、即ち私自身の人生そのものだと思うのです。たまに、自分は何に向かって生きてるんだろうとか、何のために生きてるんだろうとか、ふと思うことがあります。人生の目的って何なのでしょうか。
答えはいろいろあると思います。自分自身を鍛錬して立派な人格者になるというのも一つの目的でしょうが、それが家族を幸せにするということでもいいし、子供の成長を見届けるということでもいいし、会社のために金儲けをするということでも何でもいいと思います。ただ、この大自然の中の一つの生命体として命を与えられている、生かされているということを忘れなければいいと思うんです。それがわかれば、決して他人様を陥れるようなことはできませんもんね。
中国・唐の時代の高僧・玄奘三蔵法師は「西遊記」であまりにも有名な方ですが、師がインドへ仏典を求めて旅をしたときのことを書かれた「大唐西域記」に、こんなお話が出てまいります。
ある国に人間の形をした野獣がいました。というのも父親は獅子王と呼ばれる野獣で、母親が人間だったのです。母親は隣国の国王の娘でしたが、たまたま獅子王の住む国の国王のところへ嫁いでくる道中に、獅子王に連れ去られてしまい、そのまま結婚させられたのです。生まれてきた子供は、形は人間そのものなんですが、獅子王に野獣として育てられたのです。力は猛獣に匹敵するほどに成長しました。ところが彼が二十歳の頃、転機がやってきます。父親が野獣で、母親が人間だということに疑問を感じたのです。そのことを母親に尋ねますと、母親はことの一部始終を全て息子に話しました。息子は母親を哀れみ、父親のもとから母親と妹を連れて逃げ出しました。弱肉強食の野獣の世界から、人間の世界への転身を息子は果たしたのです。その後は人間として里の人達と仲良く生活をしたのです。しかし突然家族を失った獅子王は、怒りに燃え、荒れ狂い、国中を荒らし、たちまち人間の脅威となってしまいました。国中の兵士でもってしても獅子王を捕らえることはできず、とうとう人間の心を持った息子が獅子王の前に立ちはだかりました。息子は母親から「獅子王と言えどもあなたの父親。決して父を殺すことをしてはなりません。」と、忠告を受けておりました。しかし息子は内心悩みました。みんなを助けるために獅子王を倒すほうがいいのか、または人として父を生かしておくほうがいいのか。この場合どちらが人間としての道なのだろうと。結局息子は目の前の獅子王を父としてでなく、人間(みんな)の脅威的野獣と判断し、人の道に背くことをわかっていながら父・獅子王を退治し、獅子王は息絶えました。息子は、国王からたくさんの褒美をもらいましたが、それを全て母親に預け、自分は人の道に背いたことを反省し、身を隠してしまいました。
人間らしく生きる決意をした息子の誠実さが、非常に伝わってくるお話です。私達もいろんな場面に遭遇しますが、常に謙虚に自分を省みることを忘れてはならないと思います。そこには善悪を超えた世界があるんじゃないかと思うんです。
人という
人のこころに
一人づつ
囚人がいて
うめくかなしさ
(石川啄木 一握の砂より)
誰にでも欲望があると思います。欲望は必ずしも悪いものではなく、使い方次第だと思います。独りよがりでなければ、その欲望は意義のあるものになります。ところが、わりに欲望は独りよがりなものになりやすいんですよね。食欲・財産欲・名誉欲など・・・。これでは欲望の雲に覆われて、自分自身の歩むべき道を見失ってしまいます。御嶽山中の如きです。しかし、欲望の使い方を間違えなければ、道ははっきりと見え、目的地までもが鮮明に見えるほど、カラッとした晴れ間が広がるのではないでしょうか。
御嶽登山の折、山中に入ること1時間で見事に晴れ間が広がりました。頂上へ向かう道ははっきりと見え、皆が確実に頂上に向かっています。森林限界を超えた所には、シャクナゲが地面を覆うようにたくさんの花を咲かせていました。標高約2800mのところにも、私達と何ら変わりない命の営みがあったのです。登りきった飛騨頂上には、残雪の中に真っ青な池がありました。
木食草衣(もくじきそうい)心 月に似たり
一生無念 また無涯
もし人 居 いづれの処にあるかを問わば
青山緑水(せいざんりょくすい)是れ我が家
中国・龍牙和尚の詩です。自分の居場所、自分自身の心のありかは、この青山緑水にあるんだという詩です。この大自然の恵みによって生かされている私達の命の源は、この大自然に他ならず、私達自身が大自然の尊い生命の一つなのです。そしていずれは私達の肉体もこの大自然に帰っていきます。
与えられた命、そして仮に与えられたこの肉体を完全燃焼するために、今自分のなすべきことをしっかりやり遂げることこそ、人生の目的ではないかと思います。
ちなみに私はいろんな顔を持ってます。寺の坊主・掃除人・父親・夫・飲んだくれ・・・いろいろですが、その時その場を一生懸命生きたいと思います。それが「青山緑水是れ我が家」ということではないかと思います。
臨済宗妙心寺派・醫王霊山温泉寺
下呂温泉と共に歩んできたお寺の歴史について
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