
ここ二ヶ月半、小学校4年の息子と二人暮らしをしています。今年始め、急に家内が入院して、いきなり予期せぬ二人暮らしが始まったのです。でも、食事・洗濯・掃除など、二人でやれば何のことはないと思っていました。が、ふたを開けてみると肝心の息子は、夕方学校から帰宅するや否や、野球・ゴルフの練習、最近はお宮さんのお祭りの神楽の稽古にも参加させてもらっていて、しかも土日はほとんど野球の遠征に出かけてしまいますから、全く役にたちません。それどころか、こちらの方が送り迎え、弁当作りで振り回されているような感じがします。息子にせいぜい手伝わせて、自立をしてもらおうと企んでいた私は、すっかり当てが外れて、家内の有難さを痛感している昨今です。
こんな生活をしているうちに、お彼岸も怒涛の如く過ぎ去ってしまいました。温泉寺のお彼岸は、ほとんど私は彼岸のお参りに各お宅にお邪魔するのですが、最終日(彼岸明けの日)は、近所の皆さんがお寺の彼岸法要にお参りして下さいます。そこでお彼岸団子のおさがりで作ったぜんざいをみんなでいただきます。このお彼岸中に私は、自分の息子に何としてもお墓参りをさせたくて、普段ちっともお墓にお参りしない息子をあれこれ工夫して、何とかお墓参りに成功しました。初日、野球の練習に出かける間際に1回、最終日、遊んで帰って来たところを捕まえて1回、合計2回お墓にお参りしました。と言っても、般若心経を早口で唱えて線香をあげるだけのいい加減なお参りですが、終わったあとに息子が面白いことを口にしました。
般若心経の中の
「一切苦厄」~一切食う役
「無罣礙 無罣礙(ム ケイゲ ム ケイゲ)」~抜け毛 抜け毛
は、理解できるらしいのですが(勿論メチャクチャな考えですが・・・。)どうしても最後の「ギャーテーギャーテー」だけは理解ができないと言うんです。「ではそれ以外は理解しているのか」と腹の中で思いましたが、実はこの般若心経の最後の陀羅尼「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソウギャーテーボージーソワカ」の部分は、いろいろな学説がありますが、「さぁ、みんなで一緒に彼岸へ渡りましょう!」と一般的に訳されております。一昨年、生命科学者の柳澤桂子さんはこの部分を「生きて死ぬ智慧」の中で
「行くものよ 行くものよ 彼岸に行くものよ さとりよ 幸あれ。」
と訳されました。
では彼岸とはどんな所なのでしょう。それは大自然の中のあらゆる生命に支えられ、あらゆるエネルギーに支えられ、またお隣さんやお向かいさんに支えられて私たちが生かされていることを自覚し、反対にあらゆる生命に対して感謝と慈しみの心をもって自らを反省していく世界ではないかと思います。そこに、尊敬の念が生まれ、自分勝手な分別の世界を離れることができるのではないでしょうか。
私達は常に自分のエゴによって時に喜び、悲しみ、怒り、また貪り、地位や名誉や財産に酔いしれてしまいがちです。私自身、つい子供にやつ当たりをしてみたり、お酒を飲みたい、ごちそう食べたい、あれが欲しいこれが欲しいと、自分勝手な善悪の判断と次々に現れる欲望の中に右往左往しています。
ところが、いろいろな命と正直に向き合う時、利己主義的な考え方から解放されます。これは、木村無相さんという方の「自炊」という詩です。
たなの上で
ネギが
大根が
人参が
自分の出を待つように
ならんでいる。
こんなおろかな
わたしのために。
自分の命を惜しみなく捧げようとしている野菜に対する尊敬の念と、その事実を謙虚に受け止める自責の念がうかがえます。そこには、反省と、あらゆる命を活かしていく(大切にする)生活があるのだと思います。これが、彼岸の世界であると思います。
般若心経の「ギャーテーギャーテー」の話を上の空で聞いていた息子に、夕食を食べながら木村さんの詩を聞かせました。すると、「本当にそう思うのなら、ちゃんと野菜を並べてあげてよ。こんな無造作に置かれてたら野菜がかわいそうや!」と、返り討ちに遭いました。それでも食べ終わった後はいつになくきちんと合掌して「ごちそうさまでした。」と言ってくれました。
たよりない父親と、こましゃくれた息子の1コマでした。

臨済宗妙心寺派・醫王霊山温泉寺
下呂温泉と共に歩んできたお寺の歴史について

温泉街を一望する高台に位置する温泉寺の境内
敷地内の建物や場所のご案内
下呂温泉 醫王霊山 温泉寺
〒509-2207 岐阜県下呂市湯之島 TEL:0576-25-2465
© ONSENJI 2025 / このサイトの画像および内容を無断で使用・転載・複製することはできません。