温泉寺茶話

温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。

人生七転び八起き  2006年1月17日更新

 お正月も一通り行事が終わり、今日はもう15日です。旧暦でいう小正月ですね。小豆粥を食べたり、お正月の物をどんど焼きして、その火でお餅を焼いて食べたりして、一年の無病息災を願う行事が各地で行われます。
 また最近は変動式になりましたが、かつては「成人の日」でもありました。私事を申しますと、成人式は11年前のことで、お寺の中におりましたから、わざわざ故郷へ帰って成人式に出席するということはありませんでした。ですが、大学の先生からお祝いの言葉をいただいたことを覚えています。「七転び八起き」という言葉でした。文字通り、これからは誰にも頼ることなく、自活せよ。自活してからは、壁にぶつかって転ぶことが幾度とあるだろうが、転んでも転んでも常に自分で起き上がっていくのだよ、という励ましの言葉でした。
 大切なことだなぁと有難かったのですが、ここで一つの疑問が浮上します。
「なぜ七回転んで八回起きることになるの?」
 普通一回転べば一回起きます。二回転べば起き上がるのは二回目になります。すると七回転べば、起き上がるのは七回目だから、「七転び七起き」のはずなのに・・・。何かの計算ミスかぁ、と思っていたら、その答えを教えてくれた和尚さんがいました。
 「自分が成人に至るまで、どれだけの方の恩を受けているか考えてごらんなさい。」というのがその答えです。なるほど、ここに至るまで、たくさんの方達にお世話になったよなぁ、と痛感しました。お世話になった方達の数は、到底数えきれる数ではありません。いろいろな方達の力添えにより、今、自分は一度転ぶ前に、已に一度起こされているんだと、気づきました。ですから一度転んで起き上がるときは、もう二回目なのです。
 考えてみると、この世に生を受けたこと自体、たくさんの方達の「おかげ」なんですよね。2人の両親がいて、両親を産んだ祖父と祖母は4人、祖父と祖母を産んだ曾祖父と曾祖母は8人、その上は16人、ずっとさかのぼって10代前になると1024人という先祖の数になります。このうち1人でも欠けていたら、自分の命はなかったことになるんですねぇ。不思議なものです。「七転び八起き」の意味を、深く感じることができます。
 こうして考えると、本当に多くの方々によって私達は支えられているのですが、どれだけ受けたかわからない程の量の恩を、どうやって返していこうか悩みます。成人した後も、今現在でもたくさんの恩恵をいただいております。それは返しても返してもきりがないほどの量です。だから、誰彼問わず、普段から常に感謝の気持ちで以って少しでも恩に報いていかなければならないなぁと思います。
 東京・聖路加国際病院の日野原重明先生は、熱心なキリスト教の信者だそうですが、全く同感できることを述べておられます。
「長生きは、すばらしいことです。
 時間があるということは、
 長い人生の繕い(つくろい)をする時間が
 たくさんあるということです。」
この考え方、本当にその通りだと思います。
 

 

謹賀新年  2006年1月1日更新

 皆様、新年明けましておめでとうございます。それぞれにこの一年間の希望を胸にお正月をお過ごしのことと存じます。昨晩から元旦にかけて、温泉寺は除夜の鐘で賑わいました。いろんな思いを込めた除夜の鐘声が、下呂の街に高らかに響きわたりました。
 さて、迎えた平成18年は戌年です。犬と言うと忠誠心が強く、また可愛らしい姿が目に浮かびます。鎌倉時代、京都栂ノ尾・高山寺の明恵上人は、境内に迷い込んだ子犬を終生寵愛されましたし、徳川幕府五代目綱吉公の生類憐れみの令や、最近では渋谷の忠犬ハチ公の話はあまりにも有名です。犬に関する逸話はたくさんありますが、古来より親しまれてきた犬。その愛くるしい眼差しと、忠誠心の強さから、戌年は子育てに縁起の佳い年であると言われています。
 また、中国にはこういう話もあります。韓非子に出てくる斉王と画家との問答の中で、「犬馬は難く、鬼魅(きみ)は易し」という言葉。これは、画家が絵を描くのに普段見慣れている犬や馬は描きやすいように思えるが、皆がその姿をよく理解しているため、本当は難しく、鬼や妖怪などは難しそうに思えても、皆がその実態を知らないため、ものすごく描き易いということです。私達の日常に置き換えると、普段と違う目立つようなことをすると、人目につきやすく、あるいは称賛される場合もあるでしょうが、それは意外に簡単なことで、当たり前のことを人目に触れない所で毎日続けることは、すごく難しいということです。お寺の行事をみても、一年に一度だけの大行事や、人様が集まって下さる行事はたいへんなように思えますが、準備や片付けが少々たいへんなだけで皆様に喜ばれるから、それほどのことではありません。しかし、毎朝夕の鐘つきやお勤めは、当たり前のことですが、特に寒さの厳しい朝や寝不足の朝、二日酔いの朝などは鐘だけついてお勤めは誰も見てないし休もうかなぁ、などという怠け心がついつい生まれてしまいます。当たり前のことを毎日続ける難しさを痛感します。
 今年一年戌年にちなんで、「犬馬は難く、鬼魅は易し」を肝に銘じて過ごそうと思います。
 最後に、皆様にとって素晴しい一年になりますように。

 

除夜の鐘  2005年12月31日更新

百八の鐘、今年も是非、金(鐘)の根(音)が懐に入る初春の鐘をつきましょう!
 新年百八の鐘を、金にかけて初春の最も縁起の佳いものと昔から言われてきました。
 百八声、百八つと言えば、私達はすぐに除夜の鐘を思い起こします。では除夜の鐘がなぜ百八つなのでしょうか。我々人間には、生活をしていく上で、いろいろな悩みや煩いがあります。それを一つ一つ分析していくと、百八つになるというのです。それは汚れたきたない根性などであります。その汚れた根性が一年を通して、より多く積み重ねられてゆくわけです。その百八つにもおよぶ煩悩、罪過をすべて懺悔して(くいあらためて)新たな心で、より善い一年を迎えようとするのが大晦日の夜です。それを除夜と言います。
 百八つの煩悩の数の根拠は、一般には
一、いかり
二、むさぼり
三、おろかさ(愚痴)
四、あなどり
五、うたがい
六、邪見
以上六つの心に、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚がつきまとい、それが過去・現在・未来にわたるからだとされています。六つの感覚がそれぞれに互換して三十六となり、それが三世(過去・現在・未来)にわたり、百八になるわけです。(以上、温泉寺瓦版第58号より)
 一年はあっという間です。もう大晦日です。あと3時間後には除夜の鐘です。みんな除夜の鐘は百八つだといいますが、私なんか百八どころかそれ以上の煩悩と、それに起因する罪過を犯していると思います。やれやれ、この一年間、いろいろなことがありました。たくさんの方にご迷惑をおかけしたことと思います。おかげ様で平成17年も無事に見送ることができそうです。有難うございました。来年もよろしくお願いします。では皆様、佳いお年を! 

 

お釈迦様、ごめんなさい。  2005年12月8日更新

本日12月8日は、我が大恩教主釈迦牟尼世尊(釈尊)がお悟りを開かれた、言わば成道の日です。簡単に言うと、この世に生きながらにして仏(如来)になられた日です。
インドでは本日、釈尊成道の地・ブッダガヤーにて盛大に法要が営まれます。
わが国でも、各宗各派の寺院で、本堂や床の間に出山釈迦像を祀り、それぞれに成道会という法要が営まれます。特に我々坊主にとってはとても大切な日であり、同時に忘れることのできない日でもあります。
当時釈尊は、6年間一日も怠ることなく難行苦行を徹底されました。玄奘三蔵の「大唐西域記」によると、正覚山中腹の崖の中に大きな石室があり、そこで釈尊は修行なさったそうです。しかし、長年の難行苦行の末、ここでは悟りに至ることができないと、釈尊は下山し、ネーランジャラー川のほとりでスジャータという少女に乳粥の布施を受けます。そこですっかり身も心も癒された釈尊は、そのまま静かにピッパラ樹(菩提樹)の下で瞑想に入ります。そして12月8日鶏鳴の頃、明けの明星を見て「万物と我と同根」と、お悟りを開かれたのでした。
それまでは、釈尊も自分自身の煩悩や次々に浮かびあがる欲望や怠け心との、凄まじい戦いでした。ついにそれを超越し、生きながらに仏(仏陀)となられたのです。
それにちなみ、全国の修行僧は専門道場で12月1日から8日まで、命取りの修行と呼ばれる「臘八大摂心」を毎年繰り返すわけです。私もそれで何度となく痛い目に遭いました。なにしろ自分で自分自身を追い込むのですから、苦しいのは当たり前です。その上、少しでも気を抜いているのがばれると、先輩達の鉄拳が飛んできます。一生懸命頑張って、8日の鶏鳴をすがすがしく迎えることのできる修行僧と、ただ疲労感だけが残り、8日の鶏鳴を虚しく迎える修行僧と、両方ありましたが、私はいつも後者でした。3日目頃までは気合を入れて、ガムシャラにやれるのですが、4日目頃から緊張感が途切れてきて、とにかく悟りなんてどうでもいいから、早く終わってくれ〜、と思っていました。完全に惰性で迎えた6日目頃の朝、決まって「古人刻苦光明必盛大也」という言葉でもって叱咤激励されます。これはかつて白隠禅師が修行をあきらめそうになった時、禅関策進という書物をたまたま開くのですが、そのページに中国の高僧・慈明和尚(石霜楚円禅師)が座禅中に襲ってくる睡魔を打破するため、錐で自分の太ももを刺し、修行を大成させたという逸話が載っていました。そこに先の句が添えられていたのです。これを読んだ白隠禅師は、修行をバカバカしく思ってはいけない、やはり真剣に取り組まねばならないと、奮起されました。苦しみを刻めば刻むほど、その先に見えてくる光明は必ず盛大であると。
私もこの言葉を受けてなんとか8日目の鶏鳴を迎えるのですが、何年やってもなかなか昔の祖師方・まして釈尊のようにはいきません。その状態で専門道場を下山して、おめおめと温泉寺の住職をしているのですから、情けないものです。いつも今日・12月8日は反省と、釈尊に対する懺愧の念にかられます。
しっかり「自分は釈尊の弟子である」ことを自覚して、精進してまいりたいと思います。そうは言っても最近は夜になると忘年会続き。喜んで出席するたびに、クソ坊主とか生臭坊主に変身してしまうのです。哲学者・梅原猛さんに叱られる所以です。お釈迦様、ごめんなさい。

 

月  2005年12月6日更新

 先月の紅葉ライトアップは、おかげ様で大盛況のうちに終了できました。たくさんの方々に助けてもらい、本当に感謝しています。
 その後は、残務整理と落ち葉の片付け等で、非常に忙しく、更新がなかなかできませんでした。また、12月に入ってから急に雪が降り出し、今朝は50センチの積雪で、午前中は雪かきに追われてしまいました。12月上旬でこの積雪量に驚きました。
 さて、不精な私がなかなかこのページを更新しないのは、第一の理由として「忙しいから」ということにしておりますが、この「忙しい」という字は、心を亡くすと書きます。心を亡くすということは、まさしく「気が無い」ということになります。本当にやる気があれば寝ないでも更新できるはずなのに・・・(飲む時間はあっても仕事をする時間は無いんですよね〜)と、自分が恥ずかしくなります。
 かつて良寛和尚の伴侶「貞心尼」、京の都の「蓮月尼」と共に女流三大歌人と称された「加賀の千代」が面白い歌を残しています。
「とやかくと たくみし桶の 底ぬけて
         水たまらねば 月もやどらじ」
慌しく忙しい毎日の中には、澄んだ夜空に浮かぶ月(自分の純粋な姿・または今やるべきこと)は見えてきませんよ〜!ということでしょうか。
 これから年末で益々忙しい日々が続きますが、心の中だけはゆったりと、自分の本分を見失わないように心がけたいと思います。
 で、ホームページの更新もできるだけ努力しようと思います。(笑)

 

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