温泉寺茶話

温泉寺の宏観和尚が、日々の出来事や、ちょっとしたお話、法話などを綴っていきます。

三つ目の目・三つ目の耳  2008年11月16日更新

 今年も恒例紅葉ライトアップが始まりました。昨日15日は、昼夜あわせて1500名の来場者があり、スタッフ一同喜んでおります。

 

 ご協力いただきました下呂市長様・下呂温泉旅館組合様・下呂温泉観光協会様・下呂温泉事業組合様及び地元の皆様には、こうして無事開催にこぎづけられましたことに対して感謝しています。有難うございました。

 

 最近、妙に生物学者の先生方の書物に目が留まります。その中で非常に考えさせられることがありました。「もみじ」の葉っぱの色は、間違いなく退化していくことで緑色から黄色や赤に変化するものだと、これまで思っていましたが、実はそうではなく、元々どんな葉っぱでも、赤や黄色の色素を持って生まれてきているということです。確かにもみじでも、桜でも、本当に最初の芽生えの時は、うっすら赤い色をしていますよね。ところが、芽生え始めると次第に緑色素(クロロフィル)が葉っぱを覆ってしまうことで、緑色の葉っぱになるのだそうです。

 

 ですから、秋になり冷え込んでくることで、退化(人間で言うと老化)するのではなく、ようやく本来の色に戻るという訳なのだそうです。

 

 なんだか私たちの心の中に似ています。私だけでしょうかな。釈尊の教えによると、私たちの心の中には、本来、生まれつき備わっているきれいな心・優しい心(一言で言うと仏心)があるはずなのに、プライドや、物欲などにより全然きれいなところが見えてこない。我執(オレが・私が)が、仏心を隠してしまっている。きれいな十五夜お月様が雲に隠れて見えないような状態なんじゃないかと思います。

 

 私は普段、どっぷり俗世間に浸かっていて、ちっとも坊主らしいところがありませんが、幸い一緒に座禅をして下さる方があり、その方達のおかげで月に一度は座禅をします。座禅に打ち込むことを、禅寺では接心と言います。読んで字の如く、心に接するということです。でも、もっと本当のことを言いますと、接心の接という字を、わざと旧字体で「攝」という字を用い、「攝心」と書くのです。「心に接する」という意味は同じですが、攝は耳が三つありますよね。更に耳という字の中には「目」もありますから、目も三つあるわけです。私たちは普段、許されて二つの耳、二つの目で聞いたり見たりしているのですが、本来心に持っている三つめの耳・三つめの目を呼び覚まそうというのが「攝心」の本当の意味ではないかと思います。本来持っているものに戻るということで、まさしく紅葉と同じです。

 

 以前にも紹介したような気がしますが、イギリスのエリザベス女王のお話です。戦後、かつて植民地支配していたオーストラリアや東南アジアの各国の首脳をバッキンガム宮殿に招いて晩餐会を開いたときのお話です。当時、イギリスの誇るテーブルマナーを、招待された各国首脳はまだよく理解していませんでした。そこで招待客一人につき、二人のイギリス政府の側近がつき、テーブルマナーを指導しながらの晩餐会でした。各国首脳は緊張しながらフォークを口に運んでいたそうです。どうやら、イギリス政府は、この誉れ高き文化によって権威を誇示しようとする思惑があったようです。皆がようやくメインディッシュを食べ終わったとき、ある首脳が、ホッとしたのか、ついついフィンガーボールの水を飲んでしまいました。(フィンガーボールは指を洗うための水です。)間違いに気づいたその首脳は、赤っ恥をかいてしまいましたが、その直後、なんとエリザベス女王までもがフィンガーボールの水を飲み干しました。国賓を迎え、イギリスという国家をあげての公な晩餐会で、エリザベス女王のした行為は、イギリス王朝、イギリス政府関係者から激しく非難されました。しかし、エリザベス女王は涼しい顔で、その後は緊張のほぐれた各国首脳陣と楽しく会話をされ、和やかな雰囲気の中で晩餐会を終えられたということです。

 

 このエリザベス女王の行為をどう思われますか?いろんな立場・文化・そしてそれに伴うプライドが交錯する中、エリザベス女王は本当に真心のこもったおもてなしをされたと思います。間違いなく、三つめの目、三つめの耳で各国首脳と接しておられたのではないかと思います。

 

 今、温泉寺の紅葉は真っ盛りです。それぞれの木の、それぞれの葉っぱが、一生懸命本来の自分の色を取り戻しています。そのおかげで、昼も夜も、私たちの心は和み、安らぎます。

 

 私自身も本来の姿に戻らねばと思いつつ、ついつい紅葉の色と同じような顔色をしながら、毎晩ライトアップを楽しんでいます。(もみじよりも先に紅葉してしまいました・・・。尚、ライトアップ時は酒の提供はありませんし、私も終わってからしか飲んでいません。スタッフの皆さんも同じです。ご了承下さい。)

 


 

住職いるの?  2008年9月9日更新

こんにちは。朝晩、涼しい秋風を感じるようになりました。中秋の名月も、もう間近です。

 

近年、お盆が終わると決まって体調を崩しておりましたが、今年は大丈夫のようです。それもそのはず。一日、境内を観察していますと、朝・昼・夕方と、それぞれたくさんの方がお見えになります。そして有難いことに、それぞれがご自分の気になる箇所を、セッセと掃除して下さっているのです。草を取って下さる方。クモの巣を取って下さる方。落ち葉を掃いて下さる方。長い長い石段を掃いて下さる方。また、本堂や観音堂の中を掃除して下さる方もあります。ほとんどが住職の不精進をご存知の地元の方々ばかりです。そのおかげ様で、小生、今年は熱中症にもならずに元気でおれる訳です。有難い反面、住職としての情け無さも勿論感じます。その都度、御礼を申し上げなくてはと思うのですが、中には御礼も言えず、失礼してしまっている場合もあります。(すみません。)

 

正確に覚えてはいませんが、高見順さんの小説の中に、「起承転々」というお話があります。

 

ある旅の僧が、今晩の一宿一飯(投宿)のお願いをしようと、ある古寺の門前に立っていました。そこへ村の古老がやってきて、

 

「ここは現在住職もいないし、幽霊が出るという噂もあるから、誰も近寄らないから、別のお寺に頼みなさい。」

 

と、旅の僧に告げます。しかし、旅の僧はそれを振り切って、荒れた境内へ入って行きました。

 

玄関先の囲炉裏で暖をとっておりますと、そこへ忽然として一人の老僧が現れました。老僧は火箸で灰に、何やら漢詩の二句を書いては消し、書いては消しして、ため息をついています。そこには

 

「寂寂たる寒山寺。  更に一箇の僧無し。」

(人気の無い、全く寂しい寒山寺。更に後継の僧も無し。)

 

と、書かれていました。坊守も無く、荒れ果てた寺の現状に、嘆き悲しむ老僧の姿がありました。後の二句をつけたくても、今後どうしていいかわからず、とうとう続きの二句を書けずにいて、ため息をついているのでした。

 

すると旅の僧がすかさず、続きの二句を書き足しました。

 

「風は空楼を掃う箒。  月は古殿の灯と成る。」

(時折吹く風が、誰もいない境内の落ち葉を掃ってくれるし、月が常住のともしびと成って、古寺を明るく照らしてくれるよ。)

 

これを見た老僧は、満足そうに微笑んで、どこかへ消えていきました。

 

これが「起承転々」の大まかなあらすじです。温泉寺もまともな坊主がおりません。しかし、地元の方達が風となり、月となってくれるおかげで、景観や古い建造物がきれいに 守られているのです。何より、みんなが温泉寺を心の拠所としている姿が、立派でありますし、この尊い心を、そこに住まわしていただいている坊主自身が汚すことのないように、謙虚でいなければならないと反省しています。(もう、どれだけ反省してもおいつきませんが・・・。)

 

今月は、境内に安置されてから150周年となるお稲荷様の再建落慶。そして11月の紅葉シーズンに向けた準備も始まっています。一人でも多くの方に、来て良かったと思ってもらえるような温泉寺でありたいと願っていますし、地元の方の熱意のおかげで、そう成り得ることを確信しています。

 

 

 

 

 


 

ご結婚!おめでとうございます!  2008年6月4日更新

  こんにちは。半月間、京都の本山で絞られて帰ってきました。

 

 「疲れたなぁ。」という若干の安堵の気持ちと、これからまた現実に戻ったら戻ったで、問題山積みの山寺運営と家庭生活。「う〜〜む。頑張らねば。」といういささか重たい気持ちと交錯する中、帰ってまいりました。留守中、たいへんお世話になった多くの方々、本当に有難うございました。

 

 それにしても、複雑な心境でいる私を元気づけてくれた夫婦が一組あります。なんと、私が下呂へ帰った翌日、温泉寺で仏前結婚式を挙げてくれたのです。

 

 正直申し上げると、イキのいい若者が本当に仏前にて結婚式を挙げて下さるとは、住職の私も当日まで半信半疑でしたが、どうやら前日の夜遅く帰ってきてから本堂へお参りする際に、準備が整っておりましたので、「本当にするんだな。」と、ようやく確信した次第です。(無責任ですが・・・スミマセン・・・)

 

 という訳で、私も早速準備を始め、当日は皆様のご尽力により、滞りなく無事仏前結婚式を円成することができました。そう言えば、新郎様がお父さんと一緒に結婚式のお願いにお越しになられたとき、「僕はご先祖様の前で結婚の報告と、愛を誓いたいんです!」と、おっしゃっていました。私は、「奥様もきっとお若い方だろうに、本当に仏前でいいんですか?」と念を押しましたが、「いいんです!!」と、きっぱり。やる気があれば、何でもできるのだなと、逆にこちらが励まされました。

 

 若さ漲るパワーは、披露宴でも全開でした!私とさほど年齢は変わらないはずなんですが、ダイナミックで圧倒されるような披露宴でした。ですから私のモヤモヤした心境もどこかへ吹っ飛び、帰る頃にはサラッと爽快な心持でした。このお二人のおかげで、気持ちを切り替え、現実と正面向いていけるような気持ちになれました。有難うございました。

 

 東南アジアの仏教国、タイなどでは、結婚式と言いますと、その新郎新婦の祖父母のお二人(合計四人)が一番奉られるそうです。一番上座から、お爺さんお婆さん、そして次に両親が坐り、新郎新婦はその次に坐るのだそうです。要はご先祖様順ということでしょうか。今回の温泉寺での仏前結婚式も、勿論主役は新郎新婦ですが、きちんと本尊様と、ご先祖様のお位牌を前に、お爺さんお婆さんからお座りになりました。そして、朝からそれぞれお墓にお参りされていたお姿は、見習うべきところで、私自身も反省すべき点です。(本当にこれで住職が務まるのでしょうか・・・?)

 

  そうです。私が普段葬儀にて亡者にお渡しする引導法語も、遺族の方にお話する法話も、今回のように婚礼の戒師として新郎新婦のお二人にお話したはなむけも、全ては私自身への問いかけなのです。(あ〜、バラしてしまった・・・)皆様にお話しているようで、実は自分に言い聞かせているのです。(ゴメンナサイ)

 

 でも、若干結婚生活5年ですが、夫婦の間には様々な問題が生じることが多々あり。ということは私にもわかってきました。なるべくそういう経験を、今回のお二人にはしてほしくないんですが、念のため、私が頭の隅に置いている言葉を少しご紹介します。

 

 

 1、普段心がけている言葉

 (スペインのセルバンテスの「ドン・キホーテ」より)

  「女の言うことはくだらねぇ。けんど、そいつを聴かねぇ男は正気でねぇ!」

 

 2、夫婦喧嘩した場合に心がけている言葉

 (イギリスのルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」?より)

  「あの時の恐ろしさと言ったら・・・。」

  王様は続けた。

  「決して忘れるものか。」

 

  「でも・・・。」

  女王は言った。

  「メモしておかなければ、忘れてしまいますよ。」

 

 

 私の場合、世の中、忘れてしまいたいことだらけなのですが、やはり失敗は繰り返さないよう、心がけているほうが良いのではないかと思います。社会的責任問題にまで発展してしまう失敗は、決して忘れることはありませんが、夫婦間での失敗は、おおかた忘れてしまいます。後々社会的責任問題に発展してしまわないように、私自身、夫婦間での失敗も、なるべく繰り返さないようにルイス・キャロルの言葉でもって、気をつけるようにしているつもり・・・です。

 

 なぁ〜んて、余計なお節介でした。新婚様には関係ないお話でしたね。どうか、末永いご多幸を心から祈っております。

 


 

はなまつり  2008年5月6日更新

 ゴールデンウィークも終わりました。3月のお彼岸以来、このページも更新していませんでしたが、4月は境内のお稲荷様の再建事業に始まり、桜のライトアップ、現代禅の集い(法話の集い)、新緑を愛でる会に続き、昨日(こどもの日)花まつりまで終わってしまいました。行事のたびに、そのネタを使ってこのページの記事を作ろうと思うのですが、なかなかできません。

 

 理由はただ一つ、明白であります。当日は勿論、その前後に必ず深夜にまで及ぶ酒がつきものだからです。昼にしかできない仕事は雑用も含め、多々あるわけですから、真昼間からパソコンには向かえませんし、必ず体調の良い、静かな夜が必要なのです。なのにそれが無い・・・(涙)。でも、なんて幸せなことでしょう(感涙)。みんなが私を相手にしてくれていると思うと、本当に幸せに感じます。今日のニュースや新聞を見ますと、どこへ行ってきたとか、どこが渋滞しているだとか、いろいろ行楽関係の報道が流れますが、私はどこへも出かけませんでしたが、ある意味充実した、楽しい連休でした。

 

 昨日は「こどもの日」で、毎年恒例の「花まつり」でした。お釈迦様の誕生日を、みんなで一緒にお祝いするのです。生まれたままのお釈迦様(誕生仏)の像に、甘茶をかけて、みんなが「仏の子」であると自覚する日です。「仏の子」といいますと語弊があるかもしれませんが、言い方を変えますと「みんなが仏様と同じ心を宿した、同じ命をいただいているんだよ。本来持ち合わせている優しい心と命を、大切にするんだよ。」ということです。それを知らず知らずのうちにでも、子供達が肌で感じ取ってくれればいいなぁと、願っています。

 

 特に今回の「花まつり」は、去年までの象引きパレードやお参り、子ども会が用意するお菓子セットのプレゼントの他、地元若宮会の方による綿菓子振舞いや、プラレール遊びも用意していました。また、毎年甘茶の需要が増え続けていますので、甘茶も100ℓ用意しました。

「これはかなり楽しい花まつりになるぞ!」

と、私もワクワクして当日を迎えましたが、当日は生憎の雨。(連休中唯一の雨。)象引きパレードも予想通りの少人数の中、頑張って決行したものの、予定のコースの半分で中断。たいへんな日になったものだと、残念な気持ちで温泉寺の境内へ帰りました。ところが、温泉寺の境内ではいつもと同じぐらいか、例年よりも多くの人達で賑わいました。嬉しいことです。

 

特筆すべきは、もともと子供対象の行事なのですが、それにも関わらず子供を持たない未婚の若者が率先してお手伝いして下さっていたことです。広い庫裡の4分の1はあるプラレールの組立・設置から、綿菓子作りなど、去年まではなかったことをしてくれて、そのおかげで雨の中でも大いに子供達は喜んでいました。

また、毎年参加して下さる地元のカブスカウトやビーバー隊を引率してみえるリーダーの方々も、ご自分のお子さんはあっても、もうその隊を卒業していて、他所様の子供達のお世話をなさっている方ばかりです。

 

自分の子供が直接参加するという行事でも、休日返上でその行事のお手伝いをするということは、なかなかたいへんなことなのに、頭が下がります。自分の子供がいるいないに関わらず奉仕して下さる方達のおかげで、この地域の子供達はどんなに幸せなことでしょう。きっとこの行事に参加している大人のほとんどが、ご自分が子供の頃、同じようにこの行事に参加し、楽しい思い出を持った方達なんだろうと思います。ですからまた、今の子供達が大人になった時、地域の子供たちのために奉仕してくれていれば、その気持ちさえ抱いてくれていれば、この「はなまつり」は大成功と言えるのではないかと思います。少なくとも、今から20年から30年以上前のこの地域での子供行事は、現時点でそういう意味で大成功しているのだと思います。

 

中国の「心王銘」という書物にこういう言葉があります。

 

「水中の塩味、色裏の膠青」  すいちゅうのえんみ、しきりのこうせい

 

直訳的には、海水の中の塩分。絵の具に溶けたにかわ。ということです。実際に目には見えませんが、実在するものの喩えに使われます。しかもそれがまた、重要な役割を果たしているんです。あの塩分を含んだ海水のおかげで、海の生物達は元気に暮らすことができます。にかわが水に溶けるおかげで、私たちはいろいろな色を楽しむことができます。

 

私たち人間の「心」も、目には決して見えませんが、そのおかげで生きていくことができます。全ての行動は、この「心」によるものです。ですから自分の心の中が、「なんて汚いんだろう」とか、「なんて卑しいんだろう」とか、とても嫌になることがありますが、反対に何とも表現できない幸せな心地になることも勿論あります。きっと昨日の「はなまつり」では、その場にいるみんなが多かれ少なかれ、それを感じていたのではないかと思います。立場上、仕方なく参加するという浅はかな感情も無く、誰かのために奉仕するという恩着せがましい感情も無く、そこにいるだけで何となく心地良さを感じる空気が漂っていました。それは子供たちの素直な笑顔があったからです。

 

子供たちの笑顔を見てホッとする感情。心地良くなれる感情。これがお釈迦様のおっしゃった「本来誰もが持っている優しい心(仏心)であり、仏と同じ命。」ということだと思います。これを大切に、そして存分に活かしていけば、素晴らしい日々が送れるのではないかと思います。

 

例によってこの「はなまつり」も、私自身は何もせず、ただ子供会の方やスタッフの方達と飲むだけが仕事になってしまいましたが、本当に楽しい、心地良い酒でした。飲みすぎ注意の警告を受けることもありますが、以前医師に言われたように、梅干をきちんと食べているから大丈夫!目には見えない梅干の塩分のおかげで、私は生かされております。感謝。

 

「しあわせは  いつもじぶんの  こころがきめる。」

「イキイキ  はつらつ  感動いっぱい  いのちいっぱい。」

 相田みつをさん)

 

 


 

お彼岸(仏心の世界)  2008年3月17日更新

こんにちは。明日から春のお彼岸(ひがん)です。下呂の方達は本当に熱心にお寺参りやお墓参りをされます。お彼岸ともなりますと、家族お揃いでお参りにおみえになります。お寺に居る者が感心しているのですから、信仰心の厚さはかなりのものです。ひょっとすると、こちらの方が「しっかりしなさいよ!」と、言われてしまいそうです・・・。朝早くお越しになる方もありますから、今まで怠けて朝6時についていた梵鐘も、ここらで5時30分ぐらいにしなければと思っています。

 

さて、温泉寺は最近卒業旅行の影響か、とにかく若いカップルや若い男女のグループで境内が賑やかです。いろいろと工夫をして本堂などにお参りしていただけるようにお勧めするのですが、中にはお帰りの際、

 

「それでこちらは何の神様をおまつりしてるんですか?」

 

という質問を受けることがあります。それどころか、ちゃんと「臨済宗妙心寺派、温泉寺」と書いてあるのに、「パンパン!」と手を鳴らしてお参りされる方もお見受けします。

 

「えーっ!! お寺なのに神様??」

 

と、ずっこけてしまいそうです。理由はそれぞれにあるかも知れませんが、なるほど、これが今の若い日本人の宗教観なんです。お寺だろうが、神社だろうが、関係ないんです。とにかく神仏どちらにしろ、お参りしたら何かいいことがあるかもしれない・・・という具合だと思います。非常に寛容的な気質の日本人だからこその発想で、それはそれでいいのかも知れませんが、明日からは折角の日本古来の伝統行事である「お彼岸」です。

 

「なるべく若い十代のカップルにでも理解していただけるような内容と文章で、お彼岸の紹介文を作り、境内に表示しろ!」 

 

という難しい宿題を役員さんからいただきました。(涙)

という訳で、その紹介文の一部をここで紹介します。このお話は元妙心寺管長で、花園大学学長を長年お勤めになられました、故・山田無文老師のされましたお話です。

 

 想像してみて下さい。大きなテーブルの上に和洋食・中華などのたくさんのご馳走が並んでいます。あなたは今、友達や近所の人達と共にそのテーブルを囲んでいます。そしてたくさん食べれるように、大きな大きなスプーンを与えられています。

 

でも、みんな手足を椅子にしばられていたら・・・。

自由に動かせれるのは、上半身と口だけです。

あなたなら、どうしますか?

 

地獄のようなお話ですねぇ。腹が減っているのに、ご馳走を目の前にして、手足がしばられているなんて・・・。折角の大きなスプーンも、役に立ちません。きっとイライラしますよねぇ。横にいる友達や、正面にいるご近所さんとも不仲になると思います。このように自分の苦しみから解放されず、自分のことだけを考えているのが、文字通り「地獄」の世界であります。

 

では、同じ状況なのに極楽の世界など存在するのでしょうか。まず、上半身を前に傾け、口を上手に使ってスプーンをくわえて、ご馳走をすくいます。そしてスプーンの先を前にやりますと、正面のお向かいさんの口に入ります。ご馳走をすくって横を向きますと、お隣さんの口に入ります。このように「どうぞ。」「どうぞ。」としているうちに、お向かいさんやお隣さんからもいただくことができます。肝心なのは、ゆくゆくは自分がして欲しいから、などという策略ではなく、ただひたすら「どうぞ。」と言える布施の心だと思います。こうしていくうちに、状況がどんなに悪くても、周りの方達と仲良く、力を合わせて生きていける極楽の世界が生まれるのです。

 

この極楽の世界でいる心を「お彼岸」というのだと思います。自分とお向かいさん、自分とご近所さん、自分と友達とが隔たりなく、 一つになる世界です。

 


 

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